正式な寺名は大報恩寺(だいほうおんじ)真言宗智山派で山号は瑞応山、本尊は釈迦如来、千本釈迦堂とは通称です。
本尊である釈迦如来像にちなんで釈迦堂と呼ばれますが、嵯峨の釈迦堂(清凉寺)と区別するため、千本釈迦堂と呼ばれます。
承久三年(1221)鎌倉時代中期に求法(ぐほう)上人義空が 小堂を建立して一仏十弟子像を祀ったのが起こりで、倶舎・天台・真言三宗弘通(ぐつう)の道場として隆盛しました。
応仁の乱をはじめ、幾多の戦火を免れた本堂(国宝)は安貞元年(1227)の建立で、京都市内では最古の木造建築です
優れた仏像彫刻が多くあり、霊宝殿には鎌倉時代、藤原時代の仏像をはじめ多数の寺宝を展示しています。
行快作「釈迦如来坐像」・快慶作「十大弟子立像(十体)」・定慶作「六観音菩薩像(六体)」など、いずれも重要文化財に指定されています。
千本釈迦堂は「おかめ塚」伝説のお寺としても知られます。
千本釈迦堂を建てる時、大工の棟梁が四本ある柱のうち一本を誤って柱を短く切り、困っているときに妻のおかめが、短い一本に合せ全部の柱を切るよう助言をしました。
そして、夫の失敗を救ったのが女性である、自分だということを人に知られないように、自ら命を絶ったというのです。
この話は受け継がれ、江戸時代に三条の大工、池永勘兵衛が本堂の脇に「おかめ供養塔」本堂の前に立てました。
今でも家の棟上げには屋根裏におかめ御幣をかざる習慣があり、二月にはおかめ節分が行われます。
山門を入った左側には「北野経王堂」があります。
明徳二年(1391)山名氏清が将軍家にそむき明徳の乱を起こしたましたが、足利義満が逆に討伐してしまいました。
足利義満はその翌年、氏清とその一族、そして戦いでなくなった敵、見方の兵士を追討するため供養(北野経会)をし、「北野経王堂願成就寺」という大堂を建立しました。
江戸時代に入りこの大堂が荒廃し解体縮小され小堂となった時、解体された木材を運んでここに縮小復元したのがこのお堂です。
また12月7・8日には大根焚きが行われ、厄除け大根が参拝者に振る舞われるのは有名です。
年間行事
2月 | 節分会 |
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5月 | 花供養 |
7月 | 陶器供養 |
8月 | 精霊迎え |
12月 | 大根炊き |
住所
京都市上京区五辻通六軒町西入溝前町
時間:午前9時~午後5時
拝観料:国宝本堂・霊宝殿 500円
電話番号
075-461-5973